history

02

 

02

 

03

 

03

 

由来

 

大山の地名の由来については二つの説がある。一つは地形で、現在の養育院あたりに丘岡があってこれを大山と呼んでいたことが古老の話として伝わっていること(「いたばしの地名」板橋区教育委員会発行より)と、実際この地域が周囲より一段と高い地形だからという説。二つ目は、神奈川県丹沢の「大山、阿夫利神社」に参詣する「大山詣」の街道がここを通っていたからという説である。江戸時代から関東各地には「大山」に通じる道がいくつもあり、今も世田谷区の用賀には「大山道」と呼ばれる道がある。当時「大山詣」は大変盛んで「大山講」という参詣の集まりも数多く存在し、白装束に身をまとった講の人達が行き交っていた。この「大山道」の一つが、今のハッピーロードの石川ビル横から山中交番を通る道であったという。また、この道は富士山への参詣登山への道と同じ方向でもあり、現在の練馬区の富士街道に通じていたとのことで、「富士・大山道標」という道標も残されている。なお、今の川越街道の日大入口交差点あたりは、鎌倉に通ずる鎌倉街道が交差していて古くから賑わいを見せたという。

 

 

今のハッピーロードは旧川越街道だった

 

江戸時代の五街道のひとつ中山道。その江戸から1番目の宿場が「板橋宿」で、現在の板橋区仲宿あたりで、当時は大変な賑わいだった。その宿場から分岐して城下町川越に至るのが(旧)川越街道で、物資の輸送でも重要な役割を果たした。今のハッピーロードはその街道に沿って発展した商店街である。道がくねくねしていて、なんとなく風情があるのはそのため。現在の川越街道(国道254号線)は戦前の1932年(昭和7年)ごろに新設され、当時は幅が広かったので「改正道路」と呼ばれていた。

 

 

大山駅の誕生

 

東上鉄道(東京と上州の頭文字)として1914年(大正3年)に池袋~川越間が開業し、1920年(大正9年)には東武鉄道に組み込まれた東武鉄道東上線。都内の私鉄では最も古い。開通時は区内には下板橋、成増の2駅のみ、翌年には上板橋が出来た。大山駅は1931年(昭和6年)8月に開業し、乗降客数は当初1日750人ほどだった。高度成長期には池袋を除いて東上線で1位を続けたが、現在は郊外の駅が上回っている。
現在の乗降客は47,676人(東武鉄道ホームページより)。

 

 

 

03

 

『板橋宿は鉄道建設に反対だった・・・1881年 (明治14年)渋沢栄一らによって創立された日本鉄道会社が上野・熊谷間に鉄道を敷く計画を立てた。このときの計画路線は中仙道沿いに北上させる、つまり板橋宿内を通過させると言うものであり、計画を知った宿内は大騒ぎとなった。宿の長老達は、「汽車の宿内通過絶対反対」の意向を会社側に通告した…。ただ成増、上板橋などは賛成だったとの話もあったり、また当初から現在と同じ王子・赤羽の崖下を通る計画だったなど、諸説が伝わっている(鈴木芳郎)』

 

 

終戦から復興へ

 

戦前から旧川越街道沿いに自然発生的に商店が並んでいた大山だが、終戦後には、朝鮮戦争の特需景気も加わって、闇市が駅周辺や商店街中央部にできて人が集まるようになる。闇市は一時100軒を超えた。

 

『終戦後の大山・・・1947年(昭和22年)の夏、衣料品の配給の店として大山の商店街に店舗を出した頃は、まだ商店街に麦畑もあり、荷馬車の通行が多く馬糞を拾って畑の肥料にしたこともあります。その頃の休日は月1回で、隣の臼田さんと映画を1日6本も見ました。昭和25年朝鮮戦争勃発。9月20日衣料切符制度が全面廃止になり商売が自由にできる良き時代へ。商店街の町並も揃い大山商店街の青年部が結成され歌謡ショーやスイカわり大会を開催。この頃が大山商店街の第一次ブームでした。お客様が東上線の奥から大山へ大山へと集まってきました。商品を入れて何でもすぐ売れる時代で、1日に2回も仕入れに行ったものです。
『街のスズラン 笑顔で招く 行こうか大山 みんなの銀座
お茶を飲んだりシネマをみたり 明日の力を生むところ
そうだ大山よいところ テモサッテモよいところ ・・・』
キングレコードから発売された三門順子さんの大山音頭が街中を流れました。(鈴木芳郎)』

 

 

板橋専門店会

 

東京板橋専門店会は1952年(昭和27年)4月に発足、東京で初めて大山でクレジット事業を行うなどの先進的な活動を行った。大山では長い間2つの商店街があったが、この板橋専門店会は両商店街に跨った「接着剤」の役割を果たし、1978年(昭和52年)のアーケード建設時にはそのことが結果的に重要な役割を果たしている。

 

『板橋専門店会の発足・・・“親和と愛は我が命 心で結ぶ店と店 感謝と奉仕ささげつつ日専連は伸びて行く”「日本専門店会連盟」の歌の一節です。私たち小売商人の社会的使命と誇りを教えられた全国組織の団体です。
加盟店には「買い回り商品」(紳士服・婦人服・呉服・家具・時計貴金属・電化製品)の店が多く大山地区発展の礎になりました。(鈴木芳郎)』

 

 

千川上水の流れと大山

 

1457年(長禄元年)太田道灌が江戸城を築いた頃、江戸を関東の商業中心地にするため千川上水と玉川上水が作られたという。関東二大上水の一つである千川上水の両岸には桜の木が植えられ、春になれば飛鳥山と並ぶ桜の名所であった。川の両岸には夜店も並び下町方面からも桜見物の人々で賑わった。水がとてもきれいなことから、戦後まもなく、我が街「大山」でホタル狩りができたという。なお、千川上水は現在は暗渠となっているが、旧川越街道を横切る地点(現在の商店街中央付近)にはかつて「大山橋」があった。(石田琢也)

 

 

高度成長期 庶民的な魅力が飛躍のカギ  1960年(昭和35年)代

 

1960年(昭和35年)代の高度成長期には大山の商店街は飛躍的な発展を遂げ、東上沿線の住宅化が進むと共に、近隣の地域のみならず東上線の成増、志木などの遠方から電車賃をかけてでも大山に買いに来るほどの人気となる。商業集積と価格的な魅力が評判になり、池袋とは違って庶民的な商品を扱う商店街として大変な賑わいを見せた。盆暮れなどは身動きの取れないほどの人通りで、都内でも有数の商店街として注目された。人口も増え小学校のクラスも急激に増設されても追い付かず、周りに新しい小学校も建設された。

 

 

歩行者天国が登場  1961年(昭和36年3月)代

 

大山では1961年(昭和36年)には早くも歩行者天国が実施されている。東京銀座に日曜歩行者天国が出現して話題となったのは1970年(昭和45年)なので、それより10年も前のこと。当初は13時~20時、その後21時迄になり、現在に至っている。

 

 

 

03

 

 

二つの商店街の合併  1977年(昭和52年3月)

 

1960年代の高度成長は、1970年代に入って石油ショックを経験して成熟時代へ突入、人々の価値観も大きく変化し多様化してきた。池袋のサンシャインシティが出来ることに危機感を募らせた大山には、アーケード建設の機運が高まり、大山駅寄りの「大山銀座商店街振興組合」と川越街道寄りの「協同組合大山銀座美観街」の2つの商店街は合併を模索するようになる。各関係機関への働きかけを通じて、大山はひとつであるとの意識も次第に醸造され、アーケード建設には合併が必須との結論に到達した。アーケード建設のもう一つの理由は、都補助26号道路計画。アーケードがあれば商店街の縦断が防げるだろうとの観測からだった。
商店街同士の合併は大変な苦労がつきもの。それを乗り越えて1977年(昭和52年)3月には2つの商店街は合併し、区内最大の大型商店街に生まれ変った。その後1983年(昭和58年)7月には、愛称だったハッピーロードをそのまま正式名称として「ハッピーロード大山商店街振興組合」に変更、登記され、現在に至っている。

 

『合併秘話・・・「大山銀座」は最寄り品、「美観街」は買いまわり品の店舗が多い商店街構成だった。両商店街とも街の近代化、アーケード建設は喫緊の課題。「池袋サンシャイン60」の出現に、大山商店街は商圏を奪われるとの危惧から、商店街合併を条件にアーケード建設・高度化資金融資の申請を急いだ。高円寺商店街が高度化資金申請を見送ったとの情報が入ったからだ。建設資金の1割は自己資金が必要だった。「大山銀座」は積立金から自己資金を充当出来たが、「美観街」は3000万円不足、急遽A衣料品店が一時立替で小切手を用意し、高度化資金融資の保証は、B呉服店、C洋装生地店が連署した。高度化資金融資説明会が、大山駅前の東海銀行で開かれる前日、青年部長(当時理事待遇)の私は、大山銀座理事長に進言、「美観街理事に声をかけておいたほうがよいです。ふたつの街がひとつになるのですから」。説明会当日、案の定、東京都職員は「今日は、美観街理事がいないので帰ります」と帰庁してしまった。「美観街に呼びかけしなかったのですか?理事長」と尋ねると、「協力を得られないから」と怒りがありあり。店に戻ると、理事長から蕎麦屋に呼び出され「天麩羅そばでいいね。さっきは怒鳴って悪かった。これからも、よろしく」と、いつもの恵比須顔に戻っていた。その柴崎文二大山銀座理事長(当時)からは「人間関係、コネクション」を教わり、高橋護美観街理事長(当時)からは協同組合法、振興組合法を伝授された。このアーケード建設に大きな役割を果たしたのは、街の接着剤、(協)東京板橋専門店会だと思う。合併以前に、両商店街板専加盟店は、商店街組織を超えて気脈を通じていたからだ。(大野 厚)』

 

『初代理事長 柴崎文二さん(1922年~2001年)の横顔・・・埼玉県北足立郡白子村(現在・和光市)生まれ。「早稲田実業学校」夜学に学んだ。戦争中、中国、ニューギニヤと転戦しセレベス海で輸送船が敵潜水艦に撃沈され漂流し九死に一生を得て、終戦後、名古屋港に復員したときは同年兵51名中2名とのこと。1947年(昭和22年)に大山商店街に製パン業「菊香堂」を出店し繁盛店になった。1977年(昭和52年)には大山地区の二つの商店街(大山銀座・大山銀座美観街)の合併を成し遂げ、翌年には大山商店街の長年の夢であるアーケード建設を実現した功労者であり「ハッピーロード大山」の名を全国に広めた。1985年(昭和60年)には「板橋区商店街連合会会長」として活躍され「板橋区内共通商品券」の発行など「活力あるまち板橋」に貢献し1992年(平成4年)に「区政功労賞」が授与された。柴崎文二さんは、1999年(平成11年)77歳の喜寿の祝いを催した時、感激と嬉しさのあまり「潤はしき 親しき友と 秋実る」とお礼の一句を読む。 (鈴木芳郎)』

 

 

03

 

ついにアーケードが完成  1978年(昭和53年4月)

 

978年(昭和53年)4月に念願のアーケードは約1年の工期で完成。長さ560mの近代的なアーケード誕生で大山は都内でも有数の商店街に生まれ変わり、盛大な完成式典が行われた。

明るくて一体感があり、雨の日でも傘を持たずにすむアーケードの完成は、何よりもお客様に喜ばれた。このことは来街者通行量調査によっても明らかで、完成1年後の1979年(昭和54年)7月のイトーヨーカドー前通行量は37,929人。2年前に比べてなんと49%も増加した。

「ハッピーロード大山」という名前は、お客様からの公募により名付けられた。
キャッチフレーズは「幸せにつづく なが~い屋根」

 

大山からも消費税導入反対 土井たか子氏が来街 ・・・1989年(平成元年)4月、竹下内閣のとき、「消費税」が、「大店法改正」と引き換えに施行された。「消費税」の反対運動も全国的に展開されたが、「大店法改正」で、大型店(スーパー、デパート等)が脱落し、中小小売店、商店街が分断されて運動が弱まった。日専連政策委員だった私は、板橋区商連会長(当時、柴崎文二氏)に「都内の公民館が、大蔵省の圧力で、どの区も貸してくれない。区長に板橋区で開けるよう説得してくれませんか」と提案。豪放磊落の柴崎さん、「よっしゃ。掛け合ってみる」、と区長に談判。見事、板橋文化会館に全国商店街連合会、全日商連、日専連、ほか各種団体1300名以上が鉢巻と旗をなびかせ、バスで、電車で大山に乗り込んできた。こうして、板橋区、大山は「熱い街」としてテレビ、ラジオの電波で全国に流れた。
ほどなく、「消費税」は施行。施行日、竹下総理は銀座三越でネクタイを、土井たか子委員長は、ハッピーロード大山の「マルミ洋装店」で赤いブラウスを買った(消費税はお店でおマケ)。社会党党首に何かあると困るので、堀田充男青年部長(当時)に商店街腕章を巻き、部員に警護をお願いした。その腕章をすることにさえ執行部からイチャモンがついた。世に言う「腕章事件」だ。しかし、「おたかさんの大山ショッピング」は、テレビ、新聞、ほか各種メディアが全国に報道、かなりの宣伝効果はあった、と確信している。(大野 厚)』

 

 

 

image

 

アーケード事業・管理

 

初代のアーケード完成から18年が経過した1996年(平成8年)11月、アーケードは、より安全で快適な装備を持つ最新のものにリニューアルされた。エメラルドグリーンの屋根は電動開閉式の画期的なもの。晴れた日にはオープンルーフで太陽光が明るく降り注ぐ。同時に歩道のインターロッキングブロックによるカラー塗装や新街路灯も完成し、商店街は洗練されたイメージに生まれ変わった。12月には盛大なグランド・オープニング・セレモニーが開催された。
この大改修を実施する時も、商店街では様々な苦労があったが、将来の為の重要な投資という徳山進理事長(当時)の強力なリーダーシップで、この困難を乗り越えた。
これを機に商店街のスローガンとして「一生づきあい」が採択され、現在に至っている。

 

アーケード大改修 エピソード

 

『1996年(平成8年)アーケード大改修事業が敢行された。改修工事建設費用には高度化資金の申請が必要で、理事全員の署名・捺印が求められた。5名の理事が署名・捺印を拒否、大山で一番長い日「The longest day in Ohyama」が始まった。反対する理事に「改修事業を完成させないと商店街の寿命が短くなるし、26号道路問題もクリアできなくなる」と説得、なんとか全員の署名・捺印の書類が整った。また、一部の組合員から、「公共事業は、業者の談合がつきもの」と迫られ、商店街銀行口座残高をコピーして納得してもらったこともあった。さらに、徳山進理事長(当時)は様々なストレスから体調を崩し、療養生活を余儀なくされたこともあった。こうして大改修事業は完成した。
ハッピーロード大山は恵まれている。素晴らしい先達、顧問の方々、行政、議会超党派の議員各位から、ご協力、ご指導を頂いている。それにも増して、組合員の皆様が、理事・役員を信頼しご支援頂けるお蔭で、健全な組合運営を持続できるのだから。(大野 厚)』

 

 

 

image

LED・国内クレジット・CO2削減

 

防犯カメラの設置

 

『防犯カメラ設置の経緯・・・2003年(平成14年)の「コモディイイダ」オープンによる来街者の逓増、交通手段が自転車・徒歩で83%を考慮すると、将来危険な街になりかねないとの懸念があり、実際このころアーケードの柱に早朝・深夜に暴走車の接触事故が多発し、さらには深夜の泥酔客による火災報知機の悪戯やシャッターの毀損事故がありました。一方、通行量が25000人以上あり、当時「安心・安全・快適な街」をサブタイトルとし「一生づきあい」をスローガンとする当商店街としての責務として、プライバシーを理由に反対意見もありましたが、賛意を表するかた多数によって2004年(平成15年)に設置の運びとなりました。(堀田充男)』

 

ハローTVの開局と情報ボード設置

 

「ハローTV」は、商店街の様々な情報をリアルタイムにお客様に伝える為に、2008年(平成20年)12月に開局。50インチモニターの「情報ボード(コミュニティーボード)」をハロープラザ(コモディイイダ前)、商店街事務所、とれたて村、大山駅前の4カ所に設置。中継カメラが特売や逸品を紹介したり、特設スタジオを設けてのインタビュー風景の生中継のほか、事前に収録・編集した商店街情報番組や区民ニュース、個店コマーシャルなどを放映している。都の新・元気を出せ!商店街事業で、総事業費約1,000万円を都と区が3分の1ずつ補助。個店の情報発信ツールとしての有効活用も強化し、ホームページとも連動させて、商店街全体の集客力強化や回遊性向上に役立っている。

 

アーケード照明をLED化。アーケード商店街としては全国初!

 

1978年(昭和53年)に建設されたアーケードは、1996年(平成8年)の大改修工事を経て、2007年(平成19年)にはリファイン計画がスタート。構造面では東京都の耐震調査でも問題がないことがわかり、環境対応として関心が集まっていたLED照明化によるCO2削減対策を中心に、雨漏り等の改修を含めた工事を行うことになった。こうして2009年(平成21年)12月にはアーケード型商店街としては全国で初めてLED照明への変更工事が完成し、区長他来賓ご臨席のもと完成点灯式典が行われた。総工費1,3億円で補助金は8割だった。完成後の電気使用量は従来の約4分の1に激減、これは驚異的な数値であり、全国の商店街はじめ様々な関連業界の方々から注目されている。(三ツ井 修)

 

全国初!二酸化炭素の排出権取引の認定を受ける

 

環境問題への取り組みは、LED照明への切り替えにとどまらず、これによって削減された二酸化炭素排出権を大手流通企業の「西友」に販売する、いわゆる排出権取引(国内クレジット制度)を実施し、新聞等でも大きく報じられた。政府機関による「認証」を受けた、全国初の先進的な取り組みである。

 

LED化とアーケード改修工事を実施2009年12月工事完成

  

・電気使用量70~80%減を実現

・保守経費も大幅減

 

 

 

 

image

 

商店街として初!
第1次ハローカード

 

商業環境の著しい変化で、従来の販促活動ではマンネリ化で魅力が薄れ、大山ではこの見直しを検討する為に専門の委員会を設置することになる。そして約2年間に渡り調査・研究を重ねて、持続性のある販売促進と顧客情報の収集を兼ね備えたポイントカードシステムを導入することに決定した。こうして初代の「ハローカード」はスタート、開始時に8,000枚だった発行枚数は2年で25,000枚を超えている。
現在の新ハローカードは、2004年(平成16年)7月に第2次としてリニューアルされたもの。大山で愛されている「大山お福地蔵尊」をモチーフにデザインされ、「福がふえる」「福がたまる」「福をだします」を合言葉に作られたもの。多くの皆さんから縁起が良いと評判になっている。

 

『全国最初のポイントカード発行商店街・・・現在では当たり前のポイントカードも、当時はスタンプカードとして一部の店舗での発行にとどまっていました。そこで、このサービスを商店街で一括管理し流通させる案が浮上し、商店街独自のサービスの向上と顧客の誘致を目指し販売促進事業のツールとして1994年(平成6年)に第1次のハローカード事業がスタートしました。当時、中小企業事業団も全国商店街活性化策として、同様のポイントサービスの開発を目指しており、ハッピーロード大山商店街が最初のポイントカード発行商店街として注目を集めました。まだ世の中はアナログ時代であったこともあり、各店にコンピューターとカードを組み合わせた、この販促事業を理解してもらうことから始まり、加盟店の増強など、このソフト研究を託されたメンバー全員が最後まで苦労されたことは、今でも忘れることはありません。メンバーの皆さんと店の閉店後に語らい、各地の商店街を視察して回ったことは貴重な経験として思い出されます。(島影義明)』